南仏の街を歩いていると、いつも少し不思議に思うことがある。
夏の午後。
陽射しは強く、石畳は白く照り返している。
それなのに、日傘をさしている女性を、ほとんど見かけない。
カフェのテラス。市場へ向かう坂道。海へ続く小さな通り。
人々は帽子をかぶることはあっても、陽射しそのものからは、あまり逃げようとしない。
もちろん、知らないわけではない。
紫外線が肌に与える影響も。
シミが増えることも。
肌が老いていくことも。
フランス人女性たちだって、そんなことは、よく知っている。
それでも、南仏のマダムたちは、夏の光の中をそのまま歩いていく。
以前、その理由を訊いてみたことがある。
返ってきた言葉は、とても自然だった。
夏の太陽を遮ったら、夏じゃなくなるでしょう?
70代のマダムは、笑いながらそう言った。
別の女性は、自分の頬を指で軽く触れながら、
シミ? あるわよ。
でも、それも夏を生きてきたってことでしょ?
と、あっさり言った。
その言葉を聞いたとき、これは美容の話ではないのだと思った。
もっと深いところにある、
「自然とどう関わるか」という感覚の違いなのだと。
日本には、日本の美しい感性がある。
光を和らげること。
陰をつくること。
湿度や季節の移ろいを細やかに感じ取ること。
強いものを、そのまま受け取るのではなく、整えながら共に在る。
それは、日本が長い時間をかけて育んできた、とても繊細で、美しい感覚だ。
一方で、南仏には、また少し違う感覚が流れている。
降ってくる光を、そのまま受け取る。
吹いてくる風の中に立つ。
夏が来れば、夏に身体を預ける。
太陽を浴びた午後。
長い夕暮れ。
テラスで交わした笑い声。
そういう時間が身体に残っていくことを、彼女たちはあまり否定しない。
皺も。
日焼けも。
肌に残る夏の痕跡も。
「ちゃんと生きてきた時間」の一部として、静かに受け取っているように見える。
それは、諦めではない。
むしろ、自分の身体で季節を引き受けてきた、という感覚に近い。
南仏では、70歳を過ぎたマダムたちが、午後のテラスでよく笑っている。
深い皺(しわ)を刻んだ横顔が、強い陽射しの中でやわらかく光る瞬間がある。
その姿を見るたびに、時々思う。
美しさというのは、
何も失わないことではなく、
何かを受け取りながら生きた時間の中に宿るものなのかもしれない、と。
日傘をさすか、ささないか。
それは、ただの習慣の違いではない。
未来の自分のために今日を整えるのか。
今日という季節を、そのまま身体で受け取るのか。
もちろん、どちらが正しいという話ではない。
ただ、もし。
夏の熱気。
夕暮れ前の風。
肌に触れる光。
そういうものを、もう少しだけ、そのまま感じながら生きてみたいと思う瞬間があるなら。
その感覚は、きっと大切にしていい。
Dernière Chaleur は、
「今、ここに在る」という感覚を大切にしている。
自然と闘うのでもなく、
完全に制御しようとするのでもなく。
季節に応答しながら、軽やかに生きること。
そして、その時間が身体に残していくものさえ、
自分の人生として静かに受け取ること。
南仏の陽射しの下で笑うマダムたちを見ていると、
そういう生き方には、年齢では消えない美しさがあるのだと、時々感じるのです。
Yasuyuki SAITO

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