夜、特に予定もない部屋にひとりでいると、ふと「孤独だ」という感覚が押し寄せてくることがある。
誰かと話したい。誰かとつながっていたい。そう思って、気づけば、誰かの存在を感じたくて注意の向け先が人にだけ向いてしまう。
孤独とは、自分の周りに人がいない状態のことだと、いつの間にか、そう決めてしまっている。
家の中の小さな声に応えるようになってから、気づいたことがある。
鏡はもう曇っていない。ドアは、油を差してから、軋む音もなく開く。廊下の電気には、消すときに「またね」と伝える。
そうやって手を入れてきた部屋を、静かに見渡してみる。指先に伝わるマグカップの温度。背中を預けたときの、椅子の硬さ。それらは、ずっと前からそこにあったのに、気づけなかっただけだ。
南仏の家々には、何世代も使われ続けている、古い椅子や食卓がある。
使われるたびに、木の艶は少しずつ深くなっていく。それは、誰かに見せるための艶ではない。ただ、触れられ続けてきたという事実が、静かに積み重なっていった跡だ。
椅子は、座られることで、初めて椅子になる。
マグカップは、両手に包まれることで、その温もりを渡し終える。
彼らが何かを望んでいるのかどうか、言葉にする意志があるのかどうかは、わからない。ただ、触れられることによって、静かに完成していく何かが、そこにはある。
私たちが万物に気づこうとするのと同じように、万物もまた、触れられることで、静かに応答している。
そこには、言葉を交わさない、ささやかな両思いのようなものが、成り立っているのかもしれない。
誰かと過ごす時間の温かさを、否定する必要はない。人に囲まれていることは、それだけで十分に尊い。
ただ、人に囲まれていても、何も受け取れていないと感じる夜もある。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、孤独という言葉が指しているものは、実は「人がいない」ことではなく、触れれば応答するものたちに、気づけていない、ということなのかもしれない。
もし今夜、ひとりの部屋で、寂しさが押し寄せてくる瞬間があったなら。
誰かの存在を探す前に、ほんの数秒だけ、手の中のカップの温度や、背中を支える椅子の感触に、意識を向けてみる。
「ひとり」であることは、変わらなくてもいい。
ただ、その静けさが実は、触れれば応える何かで満たされているかもしれない。
と考えた時、あなたが感じていた「孤独」は、まだそこに在るだろうか。
Yasuyuki SAITO
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