家の涙を拭う

洗面所の鏡が、少しだけ曇っている。

いつからだったろう。

朝、その前に立ちながら「そのうち拭こう」と思った。でも忙しさに紛れて、そのまま一日が始まってしまう。

クローゼットのドアがギシギシ言うようになっても「また今度」。

廊下の電球が少し暗くなっても「週末にでも」。

決して悪気があるわけではないけれど、つい「あとで」という小さな付箋が、家のあちこちに静かに貼られていく。

まあ、こういうこと、誰にでもあるのではないだろうか。


南仏プロヴァンスで、築二百年の石造りの家に滞在したときのことを思い出す。

家主のムッシュと台所で話していたとき、戸棚の扉が少しだけ軋んだ。彼は会話を止めることなく、引き出しからオイルの小瓶を取り出し、蝶番に一滴だけ垂らした。ほんの数秒の、流れるような所作だった。

「古い家の管理は大変ですね」と私が言うと、彼は少し不思議そうな顔をして笑った。

「この家は毎日私たちを守ってくれているでしょう?だから家が涙をこぼしたときは、気づいたその場で拭ってあげるんですよ」

家の涙を、拭う。その言葉を聞いてから、小さな声の聴き方が少し変わった。

家は、文句を言わない。ただ、静かに迎えられないことを、少しだけ申し訳なく思っている。


家の涙に「あとで」と応えた瞬間から、何が起こっていただろう。

朝、起きるたび。そこを通るたび。夜、眠る前。

曇った鏡の前に立つとき、軋むドアに手をかけるとき、私たちは一年間で365回、「まだやってない」という小さな事実を自分に突きつけることになる。

逆に、気づいた瞬間にさっと手を動かしたなら。

その日から365回、同じ場所を見るたびに、「ちゃんと応えた自分」と静かに目が合うことになる。

ほんの数秒、手を動かしたかどうか。ただそれだけで、毎日の景色は少しだけ変わる。


素敵な家に住みたい、という願いは誰にでもある。

でも、素敵な家は素敵な人が住むから素敵な家なわけであって、家が小さな涙をこぼしたとき、その場でさっと手を動かせる人であることが大切なのだと、ムッシュの所作から感じた。

鏡の水滴を一枚の布で拭き取ること。軋むドアに、オイルを一滴だけ垂らすこと。切れかけの電球を、帰り道でひとつ買って帰ること。

そんな人が暮らしている家は、玄関を開けた瞬間になんとなく分かる。整然と片付いているとか、高価な家具が並んでいるとかではなく、どこか家が「ちゃんと迎えてくれている」感じがする。

もし今日、部屋のどこかで小さな声に気づく瞬間があるなら。

「また今度」と通り過ぎる代わりに、今その場で、そっと手を伸ばしてみる。

もし、それが家の涙を拭う最初の一歩になったとしたら。

洗面所の鏡が映し出すのはきっと素敵なあなた、に違いない。

Yasuyuki SAITO