「生活」と「暮らし」。ほとんど同じように使われるこの二語を、今日は、分けてみたいと思います。

分けるのは、行為ではありません。同じ行為が、両方にあります。違うのは、その行為に何が置かれているかです。「手を洗うこと」を例に話を進めましょう。

同じ手洗いが、生活にも暮らしにもある

生活のなかの手洗い。あれは、もっぱら衛生のためです。外から持ち帰ったものを落とし、手を清潔にする。必要だからします。

生活は、人が生きていくための土台です。食べる、眠る、働く、洗う。毎日を回すための仕組みです。手洗いがそのなかにあるのは、正しいことです。土台がなければ、一日は回りません。

でも、同じ手洗いに、別のものを置くこともできます。

たとえば、朝のために手を洗う。

一日が始まる前に、その始まりを自分の手で受け取るために。

石鹸への敬意を示すために手を洗う。そこにある物を、ただの道具ではなく、ともに暮らす存在として。

ひいては、万物のために手を洗う。その存在への敬意として。

行為は、一つも変わりません。手を洗うという動作は、どの場合も同じです。変わるのは、そこに置かれた意図です。

生活の手洗いは、生活のままです。意図が置かれた手洗いは、暮らしになります。


「生活レベルを上げる」と「暮らしの質を上げる」

生活レベルを上げる、という言い方をします。収入が増えて、家賃の高い家に引っ越す。値段の張るものを買う。少しグレードの高い車に乗る。想像されるのは、外から見て分かる、豊かさです。

暮らしの質を上げる、と言うと、少し違う光景が立ち上がります。窓辺に花を一つ飾る。お気に入りの器でコーヒーを飲む。気に入った道具を、手入れしながら長く使う。こちらは、内的な心地よさです。誰に見せるためのものでもありません。金額の話でもありません。

生活レベルは、外的な豊かさ。暮らしの質は、内的な心地よさ。上げていく向きが、違います。


「生活感」と「暮らしぶり」

生活感、という言葉があります。生活感のある部屋。物干しに洗濯物がかかっていて、ゴミ箱があって、冷蔵庫には買い物の袋が入っている。生きるための現実が、そのまま見えている状態です。

暮らしぶり、という言葉があります。素敵な暮らしぶり。その人がどんなこだわりを持っているか。どんなリズムで一日を過ごしているか。生き方のスタイルのほうです。

生活感は、生活の事実です。暮らしぶりは、その人の意図の表れです。同じ部屋を見ていても、この二つは別のことを指しています。


生活は土台、暮らしは彩り

生活は、生きていくための土台です。システム、と言ってもいい。

暮らしは、その土台の上でどう過ごすかという彩りです。デザイン、と言ってもいい。

土台がなければ、彩りは描けません。暮らしぶりというのは、いつも何かの上に描かれています。

だから、生活は、粗末にできません。土台が傾いていれば、その上に何を描いても定まりません。丁寧に回すことは、そのまま続けていい。生活レベルを上げることも、それはそれで構いません。

Dernière Chaleur の Ritualtude が扱うのは、彩りのほうです。"今までと同じ暮らし" をどう彩るか。そこにどんな意図を置くか。それは、暮らしのデザインの話であり、スタイルの話です。

同じ手洗いが、衛生のための手洗いであることをやめるわけではありません。朝のために洗う。石鹸に敬意を払って洗う。万物のために洗う。行為は同じままで、彩りだけが変わる。

それが暮らしです。


全30の儀式の一番目は、朝の手洗いです。

何千回も繰り返してきた所作に、5秒だけ意識を置く。その儀式には、こう書かれています。「今週、あなたは何も新しいことをしない」。

置かれるのは、意図だけです。新しい道具も、新しい習慣も要りません。

明日の朝、手を洗うとき。

水の温度を、一度だけ感じてみる。

そこに「儀式」が、そっと始まっています。

Yasuyuki SAITO


〜追伸〜

ここに、世界と出会い直す全30の儀式が開かれています。思想、写真、詩、音楽、解説。五つの層で、150篇。氏名も、クレジットカードも必要ありません。

Ritualtude は、あなたの意図に宿ります。