今は「ルーティン時代」と言ってもいいほど、朝の過ごし方や習慣の作り方についての情報があふれています。
朝、白湯を一杯飲む。寝る前に日記を書く。昼に十分だけ歩く。
どれも、小さなことです。なのに、四日目か、二週間目かに、止まっています。
「続けるもの」だと思っているから
「ルーティン」という言葉には、「続けるもの」という意味が含まれています。だから、三日坊主という言葉が生まれます。続けるものだと思っているから、「続かない」という見方が出てくるのです。
誰に頼まれたわけでもありません。自分で決めたことです。それなのに、四日目にできないと、どこか自分との繋がりを欠いてしまったような、静かな後ろめたさが残ります。
だから、理由を持ってくる
続けなければならないと思うと、人は理由を持ってきます。
お金になるから。健康にいいから。人との関係がよくなるから。得たいものは、人によって違いますが、「メリット」という言葉で自分を動機づけようとするのは、共通しています。
そのメリットのために、昨日までしていなかったことを、毎日の生活に一つ、加えます。
外から持ってきた理由で、加えた行為。これが、続かないルーティンの形です。
これは、ルーティンが良くないという話ではありません。目的を先に置いて、そこへ向かって毎日を組み立てる。その形が必要な人も、必要な時期もあるのだと思います。
理由が効かなくなった日に、止まる
理由で走っているものは、理由が効かなくなった日に止まります。
数字が動かない。体が変わらない。思っていたのと違う。それが分かった瞬間、その手順は支えを失います。
四日目にやめたのは、意志が弱いからではありません。理由が尽きたからです。
ただ、ここで見落としがちなことがあります。その三日間に飲んだ白湯は、三日分、確かにそこにありました。日数は、ただ行為を行なった日を数えた数字です。
続かなかったという事実が、それまでの行為の価値を見えなくしてしまう。これが、ルーティンの「デメリット」と言われるものの正体です。
やめた行為より、悔やむ時間のほうが長く続く。よくあることですが、白湯を飲んだその時間は確かに存在していたのです。
続いているものは、わざわざやっていない
いま続いていることを、思い出してみてください。
歯磨き。手洗い。朝、顔を洗うこと。
これを続けようと決めたことは、ありません。理由を並べたこともありません。続けている人に聞くと、「手が動いていた」という答えが返ってきます。白湯の味も、その日の気分も、覚えていません。
続いているルーティンは、わざわざやるものではありません。自分から出てくるものです。続けようとしているのではなく、走らせている自覚がないまま、そこにあります。
儀式は、何も加えない
儀式は、今の生活に何も加えません。
すでにしていることの中に、意図を込めます。朝の手洗いは、そのひとつです。あなたはこの所作を、何千回と繰り返してきました。思想の第一儀式である codex vivant φ001 は、そこに問いを置いています。
意識なき行為の反復は、生と呼べるのか。
φ001 が求めているのは、5秒だけ、そこに在ることです。手を洗うという、もう何千回もやってきた所作に、5秒だけ意識を向ける。新しいことを始めるのではなく、すでにしていることを、もう一度、意識のほうへ引き寄せる。
加えたものではないので、続くかどうか、という視点はそもそも生まれません。
もし、ある朝にできなければ、その朝の手洗いは、ただ習慣に戻っていただけです。それだけです。そして、向き合い直すのに、昨日のことは要りません。次に蛇口をひねるとき、もう一度5秒を置けばいい。
増やす必要も、やめる必要もありません。
明日の朝、手を洗うとき。
何日目かは、数えなくていい。ただ、その水の温度を、一度だけ感じてみる。
そこに「儀式」が、そっと始まっています。
〜追伸〜
ここに、世界と出会い直す全30の儀式が開かれています。思想、写真、詩、音楽、解説。五つの層で、150篇。氏名も、クレジットカードも必要ありません。
Ritualtude は、あなたの意図に宿ります。
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