朝の洗面所。鏡の前で顔を上げると、そこに自分の顔がある。
歯を磨きながら、あるいはタオルで顔を拭きながら、ふと鏡の中の自分と目が合う。何かおかしかったわけでもないのに、その顔が、たまに笑っていることがある。
鏡の中の笑顔は、いつの私の笑顔なのだろう。
太陽の光の話を思い出す。
あの光は、約8分前に太陽の表面を出発した光だ。光にも速度があるから、送り手と受け手のあいだには、必ず時間差が生まれる。理科の時間に聞いたような話だ。知っている。それでも、考えるたびに少しだけ不思議になる。
ならば、目の前30センチメートルの鏡に映る私も、同じ理屈かもしれない。
物理的には、そこにいるのは5億分の1秒前の私。言い換えれば、2ナノ秒前の私だ。
私たちは、いつも少しだけ過去の自分を見ている。
ここで、ひとつ引っかかることがある。
いま、私がつくったばかりの笑顔は、まだ誰にも見られていない。私自身にも。その笑顔が鏡を往復して、ようやく私のもとに届くのは、2ナノ秒後。
つまり、鏡に向かって笑顔をつくることは、2ナノ秒後の自分へ、笑顔を送ることでもある。
6月に、冬服を仕舞うことを思い出す。
汗ばむ午後、セーターを丁寧に畳んでクローゼットの奥へ送る。あの行為について、以前の日曜コラムでこんな言葉を綴った。
「半年後の朝、その服を取り出すあなたの手は、今日それを仕舞ったあなたの手と出会う。それはまるで、未来の自分との待ち合わせのようだ」

鏡の前の笑顔も、同じ構造をしているのかもしれない。
冬服を仕舞うことは、半年後の自分へ。鏡に向かって笑顔をつくることは、2ナノ秒後の自分へ。時間の幅が違うだけで、どちらも、いまここにいない自分に、何かを手渡そうとしている。
2ナノ秒と半年。途方もなく短い時間と、途方もなく長い時間。
けれど、そのどちらにも、いまという瞬間からしか送り出せない何かがある。
そして、ここまで考えて、もうひとつ気づく。
私たちが目にするものは、すべて光の速度を経て届いた過去だ。太陽も、遠くの山も、目の前の鏡の中の笑顔も。見えるものは、すべて少し昔のもの。
では、「今」は、どこにあるのだろう。
「今」は、見て確かめられるものではない。見ようとした瞬間、それはすでに過去になっている。
今は、確かめられない。ただ、在る。
笑顔をつくっている、その瞬間だけは、確かに在る。
もし、いま鏡の前に立っているなら。
上手に、ではなく。立派に、でもなく。
まだ誰にも見えていない、2ナノ秒後の自分へ、いまの笑顔を送ってみる。
届いたかどうかは、鏡が知らせてくれる。ほんの少し昔の自分が、笑ってこちらを見ていたなら。
今日の贈り物は、届いたのだと思う。
Yasuyuki SAITO

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