南仏プロヴァンスと聞いて、多くの人がまず思い浮かべる景色がある。

見渡す限り紫に染まった、あの一面のラベンダー畑だ。

絵葉書にも、香水の箱にも、旅のパンフレットにも、その景色は何度も印刷されてきた。気づけば私たちは、ラベンダーを見る前に、すでに「プロヴァンスらしさ」を見ているのかもしれない。

もちろん、それは間違いではない。


けれど、実際にその畑の中に立ってみると、そこには象徴というひと言では収まりきらない、いくつもの景色がある。

まず、光が強い。

やわらかな紫の印象とは裏腹に、頭上から落ちてくる陽射しは容赦がない。

足元にあるのも、豊かな黒土ではなく、白く乾いた石の多い地面だ。雨は少なく、ときに北からミストラルが吹き抜ける。写真の中では静かに見えるあの畑は、実際にはかなり硬い条件の上にある。

収穫の時季、畑で作業をしていた地元の農家のムッシュに、思わずそう伝えたことがある。

「こんな乾いた土で、よくあんなにきれいに咲きますね」と。

すると彼は、日に焼けた顔で笑って、こう言った。

「逆なんだよ。土が痩せていて、水が少なくて、陽射しが厳しいからこそ、香りが深くなる。

その言葉を聞いたとき、ラベンダー畑が少しだけ別のものに見えた。

美しい景色、というだけではない。

乾いた土。強い光。風。蜂の羽音。刈り取る手の動き。蒸留へ運ばれていく束。

そこには、紫色の一枚の景色ではなく、いくつもの現実が重なっていた。


私たちは、ものを役割で覚える。

石鹸を「洗うためのもの」として。

電気を「明るくするためのもの」として。

そしてラベンダーを、「南仏を象徴する景色」として。

役割は、ものをわかりやすくしてくれる。

けれど、わかりやすくなったものからは、手触りが先に抜け落ちていくことがある。

ラベンダー畑も同じなのだと思う。

それが「南仏らしさ」の象徴として語られるほど、その土地の乾きや、育てる人の手つきや、香りになるまでの時間は、静かに見えにくくなっていく。

けれど本当は、ラベンダー畑とは、紫色のことだけではない。

あの景色は、光の景色でもあり、石の景色でもあり、労働の景色でもあり、香りが仕上がっていくまでの時間の景色でもある。

象徴として眺めることも、ひとつの愛し方だと思う。

どちらが正しいという話ではない。


ただ、象徴はときどき、存在を見えなくする。

あまりにも美しく名づけられたものは、その名前の中に収まりすぎてしまうことがある。

もし、あなたの毎日の中にも、いつの間にか“そういうもの”として見終えてしまったものがあるなら。

それは、もう見尽くしたものではなく、役割だけを受け取っていたものなのかもしれない。

ラベンダー畑の紫の向こうには、いくつもの景色がある。

私たちの日常にも、きっとそういうものがある。

ほんの少し近づいてみる。

額縁の中の景色としてではなく、まだ名前になりきっていない手触りとして。

するとそこには、写真には写らない乾いた土の匂いが、石に宿った太陽の温もりが、まだ残っているかもしれない。

Yasuyuki SAITO