毎朝、玄関の鍵を回す。

カチッ、という小さな音。毎日同じ鍵で、同じ扉を、同じ動作で施錠しているはずなのに、その音は、一度として完全に同じではない。指先の力加減や、その日の湿度、少しだけ寝坊した朝の慌てた手つき。それらが重なって、今日だけの音が鳴っている。

けれど私たちは、それを「いつもの鍵の音」として、まとめてしまう。毎日、家と別れ、また家と再会しているのに、その一つひとつの行為を、同じものとして扱ってしまう。


南仏プロヴァンスの小さな村に、毎日同じ時間に、同じ道を散歩する老人がいた。

「毎日同じ道で、飽きませんか」と、あるとき尋ねてみた。彼は杖を止めて、少し笑った。

「道は同じでも、世界は毎日違うよ。風の匂いも、雲の形も、石に落ちる影の長さも。私は毎日、この道と出会い直しているんだよ」

その言葉を聞いてから、洗面所の鏡の前に立つ時間も、少し違って見えるようになった。


毎朝、顔を洗い、鏡の中の自分と目が合う。

初めて会う顔ではない。ずっと馴染んできた、よく知った顔だ。

以前は、その顔を確認するように見ていた。今日の状態は良いか悪いか、昨日より疲れているか、そうでないか。

いつの頃からか、その判定をしなくなった。

もちろん、変化に気づかなくなったわけではない。頬の色がいつもより明るいことも、ちゃんと目に入る。ときには目元にうっすら疲れが滲んでいることも。

ただ、それを昨日までと比べたり、良し悪しを判定したりするのではなく、「これが今日の自分だ」と、そのまま受け止める。

そして、心の中で小さく声をかける。

「おはよう。今日も一日、よろしくね」

私たちは、見慣れたはずの自分自身とも、そうやって毎朝、出会い直している。


視線を上げれば、太陽の高さも、月の満ち欠けも、星の配置も、昨日とまったく同じではない。身体の中でも、目に見えないところで、何かが少しずつ入れ替わり続けている。

世界にも、自分自身にも、完全に同じ状態でとどまっている瞬間は、一つもない。

私たちは、人生を豊かにするには、新しい場所や新しい出会いが必要だと、つい思いがちだ。それも、確かに豊かな歩き方のひとつだと思う。

けれど、遠くへ行かなくても、何かを増やさなくても、手に入る豊かさがある。

それは、すでに知っているはずの景色に貼ってしまった「知っている」というラベルを、そっと外してみることだ。


曇った鏡を拭うこと、電気を消すときに「またね」と伝えること――そうした小さな儀式も、実は、非日常をつくるためのものではなく、すでにそこにある日常と、もう一度、静かに出会い直すための所作だったのかもしれない。

もし明日、鍵を回すときに。

その音を、今日はじめて聞く音として、ほんの一瞬だけ、受け取ってみる。

もし明日の朝、鏡の中の自分と目が合ったときに。

比べたり、判定したりするかわりに、「これが今日の自分だ」と、そのまま受け止めてみる。そして心の中で、「おはよう、今日もよろしくね」と、小さく声をかけてみる。

日々は同じように見えながら、その一つひとつが、新鮮な出会いに満ちていたことに、少しだけ気づくかもしれない。

Yasuyuki SAITO