「静謐(せいひつ)」と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、図書館や美術館のような、物音ひとつしない空間かもしれない。辞書を引けば、「静かで落ち着いていること」とある。
同じように「静か」を表す言葉に、「静寂」がある。この二つの言葉は、いったい何が違うのだろう。
「静寂」という言葉は、多くの場合、「音がない状態」を指している。図書館の張り紙、深夜のオフィス、雪の降り積もった夜。世界の側から、音が消えている状態のことだ。
一方、「静謐」という言葉には、もう少し違う手触りがある。音の有無だけでなく、そこに流れている空気の「質」そのものを指しているように思う。
以前、外部の音を完全に遮断した部屋に入ったことがある。あのときの息苦しさについては、無音であることは心の静寂をもたらすのか?に綴ったことがある。理屈のうえでは、あれこそ究極の「静寂」だったはずなのに、そこにあったのは、安らぎではなく、世界との断絶だった。
静寂だからといって、そこに静謐が宿っているとは限らない。
南仏プロヴァンスの小さな村に、古い石造りの修道院がある。
ある昼下がり、重い木の扉を押して中に入ってみた。ひんやりとした石の匂い。微かにこだまする自分の足音。ステンドグラスを通り抜けた光が、埃の粒子をゆっくり浮かび上がらせている。物音はほとんどないのに、そこに立っているだけで、身体の奥のこわばりが、少しずつほどけていくような感覚があった。
何百年もの間、名前も残っていない人々が、ここを訪れ、同じ静けさに触れてきたのだろう。
静寂を求めるとき、私たちはしばしば、「これは邪魔な音だ」「もっと静かであるべきだ」と、無意識のうちに音を仕分けしようとする。
けれど、あの修道院に流れていたのは、そういう判定を手放した空気だった。自分の呼吸する音も、遠くから届く鐘の音も、誰にも咎められることなく、ただそこにあることを許されていた。
家に帰ってからも、その違いを、時々思い出す。
部屋の中の小さな音を、以前は「消すべきノイズ」として聞いていた。冷蔵庫の低い唸りも、壁の時計の針の音も。
けれど今は、それらを、ただ「世界がそこに在る」という気配として、そのまま受け取れる夜がある。
静謐とは、たぶん、音がないことではない。
何かと闘うことをやめて、ただ、そこに在ることを許したときに、静かに満ちてくる、心の凪(なぎ)のようなものなのだと思う。
もし今日、どこかで小さな物音に気づく瞬間があったら。
それを消すべきノイズとしてではなく、「世界は今日もここにある」という合図として、数秒だけ、静かに受け取ってみる。
そこに、辞書には載っていない「静謐」が、そっと満ちてくる瞬間があるのかもしれない。
Yasuyuki SAITO
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