線香花火に火をつける、夏の夜。
はじめは、賑やかだ。手を伸ばせば届く距離で、火の粉が弧を描き、弾け、走る。だれもが、その華やかな時間に目を奪われる。
けれど、いちばん印象に残るのは、いつも最後の数秒だ。
火玉が小さくなり、光を失う。ぽとりと落ちてしまうこともあれば、細く糸を引いて、燃え尽きて静かに終わることもある。どちらの終わり方も、消える瞬間、だれもが黙ってそれを見ている。
線香花火ほど、終わりを最後まで見てしまうものは、なかなか思い当たらない。
なぜ、あの瞬間に目をひかれてしまうのだろう。
火は、消えるとき、何も要求しない。ただ、火であることをやめるだけだ。それなのに、私たちは手を伸ばすことも、目をそらすこともせず、終わりが来るのを、じっと待っている。
それは、能動的な行為だ。自分から、終わりを見届けたいという意図が、そこにある。
ここで、ふと思う。
雨は、どうだろう。
線香花火の終わりには、こうして最後まで付き合うのに、雨が止むことに、意識を向けたことは、どれほどあっただろう。
降り始めは分かる。傘を出し、洗濯物を取り込み、足を速める。雨は、あなたに何かをさせる。
けれど、雨は止むとき、何も要求しない。
気づいたときには、もう終わっている。いつのまにか空が薄明るくなり、鳥のさえずりが、かすかに聞こえてくる。あの気配は、好きだ。
火の終わりは、見届けられる。雨の終わりは、気づけなかった変化として、あとからやって来る。
植物も虫も、雨が止んだことを覚えていない。それでも、根は方向を変え、羽は乾き始める。そこに意味付けはなく、ただ、応答している。
人間だけが、変化に意味を求める。それなのに、花火の終わりには目を向けて、雨の終わりには気づかない。そんな偏りがある。
線香花火は、その瞬間を、最後まで見せてくれる。雨は、その瞬間を、告げることなく去っていく。
いずれにしても、いちばん深く残るのは、終わった後だ。
だから、次の雨の日。窓の向こうが薄明るくなるのに気づいたなら、 線香花火の最後を黙って見届けた数秒を、思い出してみてほしい。
その時あなたは、雨の止み方を、見届けたいと思うだろうか。
Yasuyuki SAITO
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