Dernière Chaleur - Ritual Philosophy
« Codex Vivant Φ023 - Day 1 "Ritualtude" »
まな板の傷を撫でる儀式
まな板を洗う。
水を流し、スポンジで表面をこすり、すすいで置く。
あなたは何百回と、この手順を繰り返してきた。
しかし、洗い終えたそのまな板を、一度でも撫でたことがあるだろうか。
洗っても、傷は消えない。
傷は、汚れではない。
ならば、傷とは何か。
まな板が、今日も生きていた証である。
人参を割り、葱を刻み、肉の繊維を断ち切った、その一刻一刻が、刃の跡として板に記されていく。傷が増えるたびに、まな板は、より自分になる。
「清潔にする」と「傷を消す」は、別のことである。
あなたは知っていたはずだ。
洗い終えた後にも残る傷を、見ないようにしてきた。
まな板は、文句を言わない。
刃が何千回と走っても、翌朝また台の上に在る。切ることを拒まない。疲れを見せない。何かが生まれる場所に、ただ在り続ける。
今週、あなたに求めるのは、ただ一つ。
洗い終えたまな板を、手のひらで一度だけ、撫でてほしい。
確認しなくていい。意味を探さなくていい。
ただ、撫でる。
傷の凸凹が、手のひらに届く。
深い傷と浅い傷がある。密集した場所と、なぜか滑らかなままの端がある。刃が通った方向が、わずかにわかる。
それを知ろうとしなくていい。
ただ、その地図が、あなたの手に入ってくる。
プロヴァンスの厨房には、オリーブの木で作られたまな板がある。
百年かけてねじれた木の紋様と、刃の傷が、重なっていく。
長く使われたオリーブのまな板は、もはや「傷がある」ではなく「傷でできている」。
それを、傷んだとは言わない。
使われた者だけが持つ、密度の形である。
傷は、記録である。
目は、傷の形を流れる。
しかし手のひらは、凹凸の中に入っていく。
清潔とは、傷を消すことではない。傷を持ちながら、凛として在ることである。
Ritualtude は、傷を持つものと、傷を知ろうとする手のひらの間に宿る。
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