Dernière Chaleur - Ritual Philosophy
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まな板の傷を撫でる儀式


まな板を洗う。

水を流し、スポンジで表面をこすり、すすいで置く。

あなたは何百回と、この手順を繰り返してきた。

しかし、洗い終えたそのまな板を、一度でも撫でたことがあるだろうか。

洗っても、傷は消えない。

傷は、汚れではない。

ならば、傷とは何か。

まな板が、今日も生きていた証である。


人参を割り、葱を刻み、肉の繊維を断ち切った、その一刻一刻が、刃の跡として板に記されていく。傷が増えるたびに、まな板は、より自分になる。

「清潔にする」と「傷を消す」は、別のことである。

あなたは知っていたはずだ。

洗い終えた後にも残る傷を、見ないようにしてきた。

まな板は、文句を言わない。

刃が何千回と走っても、翌朝また台の上に在る。切ることを拒まない。疲れを見せない。何かが生まれる場所に、ただ在り続ける。


今週、あなたに求めるのは、ただ一つ。

洗い終えたまな板を、手のひらで一度だけ、撫でてほしい。

確認しなくていい。意味を探さなくていい。

ただ、撫でる。

傷の凸凹が、手のひらに届く。

深い傷と浅い傷がある。密集した場所と、なぜか滑らかなままの端がある。刃が通った方向が、わずかにわかる。

それを知ろうとしなくていい。

ただ、その地図が、あなたの手に入ってくる。


プロヴァンスの厨房には、オリーブの木で作られたまな板がある。

百年かけてねじれた木の紋様と、刃の傷が、重なっていく。

長く使われたオリーブのまな板は、もはや「傷がある」ではなく「傷でできている」。

それを、傷んだとは言わない。

使われた者だけが持つ、密度の形である。


傷は、記録である。

目は、傷の形を流れる。

しかし手のひらは、凹凸の中に入っていく。

清潔とは、傷を消すことではない。傷を持ちながら、凛として在ることである。

Ritualtude は、傷を持つものと、傷を知ろうとする手のひらの間に宿る。