朝、手を洗う。
水の音で、今日が始まる。昨朝、あの水の温度を感じた手が、また新しい朝を迎える。ひとつの一日が、はじまる。
一日は、ひとつの人生である。
朝、あなたは生まれた。昼、あなたは生きた。夜、あなたの今日は、終わろうとしている。人生は毎日である、という言葉がある。ならば、毎日もまた、ひとつの人生だ。朝に生まれ、昼を生き、夜に終わる小さな人生が、毎日、繰り返されている。
その終わりに、自分自身で立ち会ったことはあるだろうか。
眠りに「落ちるとき」。瞼は文字通り、落ちる。
疲れたとき、退屈したとき、意識の糸が切れたとき。瞼は、勝手に落ちる。気がついたら、次の朝だった。無意識に寝落ちしていた。そんな夜を、誰もが何度も経験してきた。
「落ちた瞼」と、「下ろした瞼」は、別のものである
「落ちた瞼」の向こうには、気絶がある。一日が、途中で放り出される。「下ろした瞼」の向こうには、夜がある。今日という一日を、最後まで自分の手で閉じる、小さな所作がある。
人生の終わりに立ち会わない人はいない。けれど、毎晩の小さな臨終に、自分の意志で立ち会う人は、ほとんどいない。
だから、朝のために手を洗う儀式が一日の始まりに意図を置くなら、その終わりには、瞼を下ろすという意図が置かれる。始まりと終わりに、ほんの少しだけ意志を置く。それだけで、一日は、過ぎたものではなく、生ききったものになる。
眠る前に、「3、2、1」と数えて、瞼を下ろす
気を失う前に、瞼を下ろす。
眠るためではなく。明日に備えるためでもなく。数を数えて今日に別れを告げる。
Trois, deux, un…
瞼の裏は、暗闇ではない。下ろした直後の数秒、残像が漂う。天井の輪郭、枕元の灯り、最後に見た誰かの顔。それらが、静かに沈んでいく。沈み切ったその先で、何かが、静かに組み替えられる。
昨日まで重かったことが、今朝は少しだけ軽い。昨日まで見えなかった輪郭が、今朝は薄く浮かんでいる。
同じ朝が、別のものになる
落ちた瞼で迎える朝は、昨日の続きである。下ろした瞼で迎える朝は、新しい一日である。
同じ朝が、別のものになる。そのわずかな違いが、これまでとは違う人生を創っていく。
今夜、あなたは何も新しいことをしない。 ただ、「3、2、1」と数えて、自分の意志で瞼を下ろす。 それだけで、今日は、仕舞われる。
そして明日の朝も、手を洗う。その水の温度は、少しだけ違うはずだ。
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